2013年5月7日火曜日

ダウンロード販売

やっぱりパッケージが良いという人もいるのだろうが、私はもう物理的に無理なのでPCはダウンロード販売を利用している。
最後に買ったパッケージ版PCソフトはDawn of War IIか?と思ったらThe Lord of the Rings: The Battle for Middle-Earth Anthologyみたいだ。版権の関係か、これはダウンロード販売では売っていなかったからだ。仮にあってもEAだから\12,000円とかになるんだろう。

Steam
  • 主な購入方法はクレジットカード
  • ダウンロード速度は早い
  • トラブルは比較的少ない
  • かなりの確率で多言語対応
  • 主なサポートはフォーラム
  • メジャーな作品はEA以外ほぼカバー
Half-Life2を遊ぶために登録して、それ以降あまり触っていなかったが現在では一番利用しているダウンロード販売のクライアントがSteamだと思う。ダウンロードを行なってデコードと環境が整った段階でプレイ可能になるため、トラブルは比較的少ない。
他の言語への変更もプロパティからすぐにできる。

GamersGate
  • 主な購入方法はPaypal
  • ダウンロード速度は普通
  • トラブルはやや多い
  • かなりの確率で多言語対応
  • 主なサポートはフォーラム
  • 東欧系のマイナー作品もカバー
まったく聞いた事が無いような東欧の作品や、非常に小さな作品も扱っている。現在では他所のダウンロード販売でも扱っているがParadox社のゲームはMOD等を考えるとここで買うのがベストだと思う。
昔はダウンロードがとてつもなく遅かった(当時、Mass Effectは70時間掛かった)が現在は北米にもサーバがあるので結構早くなった。
既にサポートが終了したゲームでも並ぶため、古いソフトとかでは動かないというトラブルが時々ある。古いゲームはGOGとかの方が安全だ。

Origin(日本)
  • 主な購入方法はクレジットカード
  • ダウンロード速度は早い
  • トラブルは多い
  • 英語版か、日本語版がある場合強制的に日本語版(吹き替えも優先)
  • 主なサポートはGoogle
  • EAの作品の半分ぐらいと極一部の海外ゲーム
EAの作品がメインだが、EAの作品を全て扱っている訳ではない。
この辺でわけがわからないが、特長は糞クライアント(前は糞以下だった)と存在しないサポート、機能していないフォーラム、日本語版では字幕機能カット等「プレイヤーの忍耐に挑戦」が売り。
正直言って使いたく無いが、ここでしか扱っていないソフトもあるので面倒だ。

Steamの昔

今のSteamは非常に安定しているが、最初にリリースされたSteamは酷い物だった。
一番大きな違いは、今はダウンロード完了→起動設定→起動だが、最初はストリーム配信を使っていた。つまり最低限の環境をインストールしたあと、必要なデータを随時ダウンロードする仕組みになっていた。今で言うYouTubeみたいなものだ。

じゃあなぜ酷かったのかと言うと、当時の回線は今の数千分の1ぐらいの能力しかなく、ほとんどのユーザはADSLの普及前で数キロ単位の回線しか持っていなかった。ゲームが始まる→数分の読み込み(操作不能)→少し進む→数分の読み込み(操作不能)と、こんな感じ。最初はHalf-lifeしか遊べなかったが、Steamの一番の売りはHalf-Life2が遊べる事だったので、本気で「これでHalf-Life2の配信なんてできんのか?」という印象だった。

結局ストリーム配信から現在のようなダウンロード形式に変わった(ごく初期はストリームだったような気がする…があまり良く覚えていない)ものの、元々ストリーム配信用に作ったからなのか、シーン切り替えの読み込みはかなり遅かった。もちろん現在の性能ならそれほどストレスにはならないのだろう。問題にならなかったのはHalf-Life2がそれほど面白くなかったからだ。Half-Lifeは何度も遊んだが、2はそうでは無かった。発売が遅れに遅れたのも、偉大な前作のおかげで期待し過ぎたのもある。技術ムービーが凄すぎたのも理由だと思う。凄さを感じる事が難しい時代なのはHalf-Life2 ep3がいつまで発売にならない原因の一つでもあるのだろう。

それでもSteamが凄いのはゲームの流通を完全に変えてしまった部分にあると思う。大昔はゲームは船便で届いていた(私の利用していた店ははUKから輸入していた)。大体2~3ヶ月ぐらい掛かる。戦争でスエズが使えなくなると喜望峰経由なので更に倍だ。国内で海外のゲームを扱っている店も幾つかあり、そこに注文すれば1~2週間ぐらいで届くものの、必ずしも欲しいソフトが売っている訳でも無いしかなり割高なケースが多かった。私は幸運にもそれほど遠く無い場所に海外ソフトを扱っている店があったため、運が良ければそのまま買って持ち帰る事が出来たものの、雑誌で欲しいソフトがあれば当然船便待ちとなる。それが購入して1時間もすればゲームが遊べてしまう訳で時代の流れを感じてしまう。

あの頃の方が楽しかったか、と言われれば楽しかったとは思う。店から入荷の電話を心待ちにしていたような気分は今味わう事はできない。だが、あの頃に戻りたいか?と言われれば「嫌に決まってるだろ」と思う。遊びたいソフトは1秒でも早く遊びたいに決まってる。私はパッケージにもマニュアルにももうほとんど感情は無い。だからと言って古いソフトをぽいと捨てられる程割り切れないのは事実だが、極力パッケージは買わないようにしている。…邪魔だから。今でもNovaLogicの糞みたいなパッケージを思い出す。ああいう糞みたいなパッケージは心底邪魔だ。後はOceanの糞でかい箱とか…。

昔の私は今より馬鹿だったのでAmiga版とPC版何が違うのか?とかで両方買ったりしていた。一番多いヤツだと…5バージョン?(違った6だ…限りなき馬鹿さだな)…ヤレヤレだ。現在、個人の所有するコンピュータにおけるゲーム市場はほぼPCで、今後もMacとLinuxが占める部分も10%を越える事は無いと思う。GaikaiのようなStream主体の物が主流になるには通信網が今より発達しないと厳しいのでは無いだろうか。そう考えるとSteamのような形態が後5年ぐらいはベストなのでは無いだろうか。だが、いつかはそれもベストでは無くなり、家に居ながら通信端末みたいのだけで画像装置に繋ぐだけ、みたいな時代が来るのだろうか。そうなるとゲームを所有する、みたいな感覚はほとんど無くなってしまうのかも知れない。ただ、そうなったとしてもPCゲーム市場みたいな物は残り続けるのだろう、と思う。ほとんどの大作がStream主体になったとしても全ての作品がStreamに乗る事は無いだろう。その頃には安価なPCでも現在のGamePCクラスの性能を持っているだろうから、性能的な部分は余程の大作でない限りクリアされているに違い無い。

いつかは「昔はゲームをダウンロードしてインストールして遊んでたんだよね」というのが冗談だと思われる時代が来るのだろうか。私は「昔カセットテープでゲームが売ってたんだよね」と言って冗談だと思われた経験があるので、そういう時代も来るのだろうなと思う。その頃になったら、Steamを「ああ、あったねそういうの」みたいに言う日も来るのだろうか。

コミュニティとゲーム

一時期MOD文化とセットで扱われた代物に「コミュニティ」というのがある。簡単に言ってしまうとコミュニティというのは、そのゲームに興味ある人が集まるフォーラム+開発者との接点みたいな感じだろうか。

有名所だと、Paradox社のゲームが熱狂的なコミュニティを築いているし、概ね有名なゲームにはそれぞれ巨大なコミュニティが構築されている。まぁこの頃の記事はどれもこれも凄くて「MOD文化の発祥はHalf-Life」だとか「RTSの元祖はWarcraft」だとか…それはもう酷かった。MOD自体はApple ][の頃からあった話だし、コミュニティも1980年代には既にあった訳でそれを「フォーラムを設置すれば簡単にコミュニティが!」みたいなのは流石に「お前は電通の回し者か」という感じで結局コミュニティは日本では根付かなかった。当たり前の話だよな。

高度なコミュニティを築くのがどれぐらい難しいかと言うと
  • 最高クラスのコミュニティ管理者が必要
  • 相当優れたクラスのコミュニティ担当が複数必要
  • 24時間体制
  • バックボーン
この4つが最低必要となる。一番難しいのがコミュニティ管理者でこういう人を見つけるのが一番大変だろう。コミュニティ管理者に必要な能力というと、
  • ゲームの知識
  • 開発との太いパイプ
  • バランス感覚
  • ユーモア
  • 精神が超人的にタフ
こんな感じだろうか。3つぐらい持っていたらもう神に感謝した方が良いぐらいだ。人によるだろうが、私の場合記憶に残っているのはFuncom(その後、Blizzard EUの'Thundgot'となる)のThomas 'Cz' Johnsenだ。Anarchy Onlineというゲームは発売1年ぐらい酷い有様だった。それでもコミュニティが形をなしていたのはこの人の功績が大きいと思う。海外の場合、長続きするコミュニティには大体そういった感じの名物コミュニティ管理者がおり、そういう管理者に恵まれなかったコミュニティは相当お寒い状態となる。シベリアのようなフォーラムと言えばここだろう。1ページ目で一番下のPostが2009年…ね。

World of Warcrafのコミュニティマネージャー会議
 コミュニティ管理者の苦労がわかるパロディ動画

コミュニティが活性な場合、プレイヤーの定着率は上昇する。また、プレイヤーの数と年齢層には密接な関係があり、年齢層が若くなればなるほどTrollが増える。Trollが増えすぎるとコミュニティは機能しなくなるため、なんとかしなければならない。この辺に答が無いのがコミュニティの維持が如何に大変か、という部分なのだろう。プレイヤーが本気で怒っているのか、単なる嫌がらせなのか明確に判断する基準は無い。この辺への対応がコミュニティ管理者の腕と言える様に思う。

ただ、コミュニティが活性だからと言って全てが良い方向に動くかと言うとそういう訳でも無く、失敗したコミュニティの例として一番わかりやすいのがCivilizationだろう。最新のCivilizationは現在シリーズの5番目の作品で面白いゲームではあるのだろうが、元々の作品に比べると完全に戦争のためのゲームになっている。不思議な話だが、Empireにどんどん近くなっている。なぜか?プレイヤー達がそう望んだからだ。プレイヤー達の不満がCivilizationのデザインをどんどん歪な形に変化させていった。結果としてよくわからない「スペックを持つ」ユニットが増え、汚職は無くなり、政治形態による制限も薄くなっていった。

プレイヤーが望んだ事だ。そして作り手はそれに応えた訳だ。これが正しいという人もいるのだろう。少なくとも十数年前の私はそう思っていた。だが、インターネットの発展と共にどうも違うような感じを受けるようになった。良い影響だけではなく、悪い影響も同じぐらい大きい(今考えれば当たり前の話だが、当時は実際目にするまで気がついていなかった)と思い、2004年に「声のでかさ×質の悪さ=影響力」と書いたが、今もそう思っている。プレイヤーのフィードバックを元にデザインに変更を施すのは正しいのだろう。だが、プレイヤーのフィードバックがデザインに直接影響するのは正しく無いのだと思う。プレイヤーのフィードバックを直接デザインに反映させた物はデザインの面白さを減少させる事が多い。ただ、商業のデザインは商売な訳で「プレイヤー達からこんな声が届いています」というのはデザイン上、避けられない問題なのだろう。

私はデザインの好みとして、荒削りでもデザイナーの「ここが魅力」というのが伝わってくる物が好きだ。コミュニティの善なる効果は素晴らしいと思う。だが、デザインの魅力を削ぐような行為を見ていると必ずしも良い効果が全てだとは思わない。どのようなデザインであれ、デザインは自由であるべきだと思う。「良く出来ていて」「つまらない」作品が私にとっては一番退屈なデザインだ。私は絶えず人のデザインに関して文句を言っている方なのだろう(褒めるよりは文句言っている方が多い)が、その声が届いて改善されてほしいとは全く思わない。

ゲームのデザインには答は無い。私が気に入らないデザインを好きな人もいるだろうし、逆もまた然り、だと思う。答が無いからこそデザイナー各人の色が出るのではないだろうか。例えばデザインを柱に例えるとするならば、シド・マイヤーは斜めに切り、ウィル・ライトは水平に切り、ピーター・モリニューは縦に切る、なんていう違いが出るかも知れない。シド・マイヤーはデザイン上の取捨選択を好むだろうし、ウィル・ライトは普遍的な事柄をデザインに盛り込もうとするだろう。ピーター・モリニューは入れたいものを全部ぶち込むようなデザインをするのでは無いだろうか(そしてバランスが悪くなった柱が倒れたりする。でもそれが彼のデザインの魅力なのだと思う)。それが全て同じ柱になってしまったら映画のアーリントン国立墓地みたいになってしまうだろう(EAって書いてある柱がどんどん増えるような)。

「コミュニティの総意」(ネットで声が上がってる、Blogで…とかまぁなんでもいい。要は沢山の声があるという状態)みたいのが出来上がって「変更すべきだ」みたいな風潮は昔からある訳だが、「完璧なデザイン」という物は存在しない。柱に楔を打ち込んでも切れた柱を接着剤でくっつけても完璧にはならない。もちろんゲームは遊ぶ人間がいて初めて成立する物だから割合こそ異なれプレイヤーはデザイン上の要素の一つなのだと思う。完璧なデザインが存在しないのは完璧なプレイヤーという物が存在しないからだ。アルタミラの壁画とルネッサンス期の絵画を比べてどちらが完璧ですか?みたいな質問は無意味だと思う。それとも中世絵画はもう古いから現代風に直すべきだとでも?

Bioshock Infinite

Angry Joeによるレビュー

前に発表された予告に比べると、ゲーム本編は期待した物では無かった。
2010年に発表されたらしい「ゲームプレイ」動画

ゲームプレイを除けば本編は素晴らしい出来た。驚嘆する美しさと密度を持つ舞台設定、ゲーム本編に影響を及ぼさないメッセージ性(どう感じるかはプレイヤー次第)、前作Bioshockよりも主人公を全面に出した「様に」見えるのはパブリッシャーからの圧力なのかは不明だが、通常版以外では主人公が描かれていないので恐らくそうなのではないだろうか。

で、ゲームプレイはというと、2007年に発売されたBioshockと違う点は無い。プレイしている感じはほぼ同じだ。違いはというと、環境を使う要素が少ない事と機能していなかったBig Daddyが削られた事だ。そう考えるとゲームプレイの要素はBioshockより少なくなっている。なのでメディアで言われる「画期的なゲームデザイン」というのはどこを指しているのかわからない。私が遊んでいるゲームは違うのか?

ゲームを進めてみて、感じた事は多分ゲームとしての面白さを追求しなかったのでは無いだろうか。という事だ。だって2010年の「ゲームプレイ」動画の方が圧倒的に面白そうだからだ。あれに比べるとRAGEを彷彿とさせる敵AIと特に面白くも無いスカイライン…正直に言えばもっと素晴らしい体験を出来る物と信じていたスカイラインだ。ジェットコースターよりも遥かにしょぼく、あれならスキー場のリフトの方がスリルがあると思う。ゲームとして面白くする事はできたのだと思う。ただ、それを選ばなかったのでは無いだろうか。例えばスピードを出し過ぎたらスカイフックが外れるようにすればプレイヤーは慎重にスカイラインを使うだろうし、ゲーム的にはメリハリが出ただろう。実際の所、ゲームプレイとしてコロンビアが空に浮かんでいる理由は特に無い(私がプレイした範囲での話だが)。

プレイヤーのストーリー体験を中心に据えた結果としてゲームプレイが切り捨てられた様に思われる。残念か?と言われたら残念だと答える。とはいえ、ゲームプレイを切り捨てた結果「画期的なゲームデザイン」として評価され、販売も好調ならそれは成功した結果なのだろう。ただ、そこまでしてストーリー体験を表に出すなら別にFPS形式にする必要があったのだろうか?私の場合、ゲームプレイとストーリーの両輪が回る方が好きで、片側が猛烈な速度で回転すると冷めてしまうため尚更そう感じるのかも知れない。どの武器を使おうが、どのギアを使おうがゲームプレイはさほど変わらない。”なんとかには火が効きません”と表示されても「へぇ」としか思わない。「不味いぞ!火が効かないのかよ!」なんて事は無い。

じゃあどうしてこういうデザインにするのか?という事を考えるとプレイヤーに死亡体験をさせたくなかったからなのでは無いだろうか。プレイヤーを死亡させれば嫌でも「ああ、これはゲームなのか」と感じざるを得ない。だからスカイフックが外れる事も無いし、武器やギアの取捨選択を間違えて詰んだりしない。逆に有利になったりもしない。弾が無くなったら他の武器に切り替え、しょっぱいギアを装備してもうんざりする事も無い訳だ。全てはプレイヤーのストーリー体験の為に、と考えれば納得が出来る。

ああ、そう考えると確かに「画期的なゲームデザイン」と言えなくも無いのか。私はHalf-Lifeの夢から醒めていないだけなのだ。多分心のどこかで再びああいう体験をしたいと思っていて勝手に期待しただけなのだ。Bioshock Infiniteは私にとってお買い得なゲーム(Spec Ops: The Lineと$20分のポイントと…何故かXCOM: Enemy Unknownもついてきた…大丈夫かGamersGate)だった訳だが、まだ 15年前のHalf-Lifeの夢を追っているというかなり苦い自分を知って少し憂鬱だ。FEARで海兵隊との戦いの夢は醒めたが、Half-Lifeで経験した、「環境vs自分」の夢は醒めていなかったのだ。

私がBioshock Infiniteに期待していたのは、コロンビアの環境と戦う事だったのだ。だからここまでガッカリしたのか。ようやくわかった。スカイフックを握りしめて助走してジャンプしたかったのだ。スカイフックをスカイラインに引っ掛け損なって真っ青になりたかったのだ。科学の夢である「空中都市」を体験したかったのだ。想像の中で火花を散らし走るスカイフックを歯を食いしばって握り締めた手応えは素晴らしい物だった。白い雲海と青い空と空に浮かぶコロンビアの光景の中、風を切り裂きスカイラインを進むのはまさに想像を絶する体験だった。 発売までの(ありがたい事に流石2Kだけあって、英語版なのに1ヶ月延期してくれた)ワクワク感を味わったのだから私にとっては良い体験だった。あのワクワク感に比べれば本編でのガッカリなど大した事では無いのだろう。それがわかっただけでも良かった。