2013年5月7日火曜日

コミュニティとゲーム

一時期MOD文化とセットで扱われた代物に「コミュニティ」というのがある。簡単に言ってしまうとコミュニティというのは、そのゲームに興味ある人が集まるフォーラム+開発者との接点みたいな感じだろうか。

有名所だと、Paradox社のゲームが熱狂的なコミュニティを築いているし、概ね有名なゲームにはそれぞれ巨大なコミュニティが構築されている。まぁこの頃の記事はどれもこれも凄くて「MOD文化の発祥はHalf-Life」だとか「RTSの元祖はWarcraft」だとか…それはもう酷かった。MOD自体はApple ][の頃からあった話だし、コミュニティも1980年代には既にあった訳でそれを「フォーラムを設置すれば簡単にコミュニティが!」みたいなのは流石に「お前は電通の回し者か」という感じで結局コミュニティは日本では根付かなかった。当たり前の話だよな。

高度なコミュニティを築くのがどれぐらい難しいかと言うと
  • 最高クラスのコミュニティ管理者が必要
  • 相当優れたクラスのコミュニティ担当が複数必要
  • 24時間体制
  • バックボーン
この4つが最低必要となる。一番難しいのがコミュニティ管理者でこういう人を見つけるのが一番大変だろう。コミュニティ管理者に必要な能力というと、
  • ゲームの知識
  • 開発との太いパイプ
  • バランス感覚
  • ユーモア
  • 精神が超人的にタフ
こんな感じだろうか。3つぐらい持っていたらもう神に感謝した方が良いぐらいだ。人によるだろうが、私の場合記憶に残っているのはFuncom(その後、Blizzard EUの'Thundgot'となる)のThomas 'Cz' Johnsenだ。Anarchy Onlineというゲームは発売1年ぐらい酷い有様だった。それでもコミュニティが形をなしていたのはこの人の功績が大きいと思う。海外の場合、長続きするコミュニティには大体そういった感じの名物コミュニティ管理者がおり、そういう管理者に恵まれなかったコミュニティは相当お寒い状態となる。シベリアのようなフォーラムと言えばここだろう。1ページ目で一番下のPostが2009年…ね。

World of Warcrafのコミュニティマネージャー会議
 コミュニティ管理者の苦労がわかるパロディ動画

コミュニティが活性な場合、プレイヤーの定着率は上昇する。また、プレイヤーの数と年齢層には密接な関係があり、年齢層が若くなればなるほどTrollが増える。Trollが増えすぎるとコミュニティは機能しなくなるため、なんとかしなければならない。この辺に答が無いのがコミュニティの維持が如何に大変か、という部分なのだろう。プレイヤーが本気で怒っているのか、単なる嫌がらせなのか明確に判断する基準は無い。この辺への対応がコミュニティ管理者の腕と言える様に思う。

ただ、コミュニティが活性だからと言って全てが良い方向に動くかと言うとそういう訳でも無く、失敗したコミュニティの例として一番わかりやすいのがCivilizationだろう。最新のCivilizationは現在シリーズの5番目の作品で面白いゲームではあるのだろうが、元々の作品に比べると完全に戦争のためのゲームになっている。不思議な話だが、Empireにどんどん近くなっている。なぜか?プレイヤー達がそう望んだからだ。プレイヤー達の不満がCivilizationのデザインをどんどん歪な形に変化させていった。結果としてよくわからない「スペックを持つ」ユニットが増え、汚職は無くなり、政治形態による制限も薄くなっていった。

プレイヤーが望んだ事だ。そして作り手はそれに応えた訳だ。これが正しいという人もいるのだろう。少なくとも十数年前の私はそう思っていた。だが、インターネットの発展と共にどうも違うような感じを受けるようになった。良い影響だけではなく、悪い影響も同じぐらい大きい(今考えれば当たり前の話だが、当時は実際目にするまで気がついていなかった)と思い、2004年に「声のでかさ×質の悪さ=影響力」と書いたが、今もそう思っている。プレイヤーのフィードバックを元にデザインに変更を施すのは正しいのだろう。だが、プレイヤーのフィードバックがデザインに直接影響するのは正しく無いのだと思う。プレイヤーのフィードバックを直接デザインに反映させた物はデザインの面白さを減少させる事が多い。ただ、商業のデザインは商売な訳で「プレイヤー達からこんな声が届いています」というのはデザイン上、避けられない問題なのだろう。

私はデザインの好みとして、荒削りでもデザイナーの「ここが魅力」というのが伝わってくる物が好きだ。コミュニティの善なる効果は素晴らしいと思う。だが、デザインの魅力を削ぐような行為を見ていると必ずしも良い効果が全てだとは思わない。どのようなデザインであれ、デザインは自由であるべきだと思う。「良く出来ていて」「つまらない」作品が私にとっては一番退屈なデザインだ。私は絶えず人のデザインに関して文句を言っている方なのだろう(褒めるよりは文句言っている方が多い)が、その声が届いて改善されてほしいとは全く思わない。

ゲームのデザインには答は無い。私が気に入らないデザインを好きな人もいるだろうし、逆もまた然り、だと思う。答が無いからこそデザイナー各人の色が出るのではないだろうか。例えばデザインを柱に例えるとするならば、シド・マイヤーは斜めに切り、ウィル・ライトは水平に切り、ピーター・モリニューは縦に切る、なんていう違いが出るかも知れない。シド・マイヤーはデザイン上の取捨選択を好むだろうし、ウィル・ライトは普遍的な事柄をデザインに盛り込もうとするだろう。ピーター・モリニューは入れたいものを全部ぶち込むようなデザインをするのでは無いだろうか(そしてバランスが悪くなった柱が倒れたりする。でもそれが彼のデザインの魅力なのだと思う)。それが全て同じ柱になってしまったら映画のアーリントン国立墓地みたいになってしまうだろう(EAって書いてある柱がどんどん増えるような)。

「コミュニティの総意」(ネットで声が上がってる、Blogで…とかまぁなんでもいい。要は沢山の声があるという状態)みたいのが出来上がって「変更すべきだ」みたいな風潮は昔からある訳だが、「完璧なデザイン」という物は存在しない。柱に楔を打ち込んでも切れた柱を接着剤でくっつけても完璧にはならない。もちろんゲームは遊ぶ人間がいて初めて成立する物だから割合こそ異なれプレイヤーはデザイン上の要素の一つなのだと思う。完璧なデザインが存在しないのは完璧なプレイヤーという物が存在しないからだ。アルタミラの壁画とルネッサンス期の絵画を比べてどちらが完璧ですか?みたいな質問は無意味だと思う。それとも中世絵画はもう古いから現代風に直すべきだとでも?

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