2013年3月13日水曜日

ゲームにもうスペックは必要無い?

「ゲームは今の性能で十分です」なんて話は10年以上からある訳だけど、未だにそういう事言う人がいる。
なぜ?と問うと返ってくる答がこれ。

「だって画面が綺麗になるだけじゃないですか」

馬鹿か。とこれだけで終わってしまうのも何なので適当に続ける。
昔のグラフィックの方が味があった、まぁこれに関しては否定しない。私もPC-88のMULEとAtari800のMULEでどっちが味があるか?と聞かれたらAtari800だと思う。(でもPC-88でAtari800の味を出すのは根本的に無理だろ)

「昔のグラフィックの方が想像の余地があった」

そうか?今のゲームでも想像の余地は十分あると思う。この辺は好みがわかれる所だが、腹が立つのはグラフィックに「昔はこの程度で良かった」みたいな事を言われる事だ。別に昔のドットを打ってた人も「8ビットだからこれぐらいでいいだろ」なんて事をやってた訳ではなく、それこそ心血を注ぐ打ち方をしていた。今だって大変な手間を掛けてゲームを作っている方々がいるわけだが、昔は楽に作ってた訳では無い。どうしてそんな失礼な物言いが出来るのか不思議に思う。「想像の余地のあった」グラフィックも別に想像の余地を意図して作ってた訳では無いだろう。

グラフィックがゲームの全てではない。そのゲームに含まれているあらゆるものがゲームの構成要素だろう。昔はマニュアルだって立派なゲームの一部だった。今はそうでは無くなったが、替りに操作系は非常に安定した訳だし当時に比べればインターフェイスも相当洗練されていると思う。まぁ何よりもグラフィックはゲームにおいて重要な要素の一つだが、ゲームのスペックが使われるのはグラフィックだけではないというのに何故か「向上したスペック=グラフィックの向上」という図式が出来上がっている。AIだって相当なスペックを使うのだし、メモリに余裕が出来れば数々のデザイナーが挑戦して敗れ去ったゲームにおける即興性が可能になるのかも知れない。

私の場合、ガキの頃に夢見た未来のゲームは現在既に過去の話になっており、この先どう進化するのだろうか?と思う事がある。スペックが必要無いと考える人達が何を考えているのか理解できない。過去のゲームと同じ物を遊びたいなら過去のゲームを遊べばいいのでは無いのか?グラフィックしか向上していない?一体どこを見ているのか。私が例えばXbox360やPS3の頃からゲームを始めていたとしたらそう感じるのだろうか。私からすると今のゲームは数十年の都市の変化を早回しで見ているような感じだ。車が無人になったり空を飛んだり、建物にチューブが這うのを見られるまで生きているのかはわからないが、デザインはどこまで進化するのだろう?動的な世界は可能になるのだろうか?感情を扱う事は?もっと優れたデバイスが登場する?ディスプレイの進化は?幾らでも進化の道筋はある。有限がデザインの力を引き出すというのは事実だと思う。だが、スペックが十分にあれば同様にデザインの力を引き出す事も可能なのでは無いだろうか。

全てのゲームがスペックを使い果たす必要は無い。1ドット単位の調整が可能だったり、物理エンジンを搭載したテトリスを喜ぶ人間はあまり居ないだろう。シド・マイヤーは子供の頃、地図を見てゲティスバーグの戦場を想像したと語っていた。もしそういう物をゲームで体験できるのだとしたらスペックには意味があるのだと思う。Half Lifeで崩壊が起こる中、研究所を駆け抜けた時。Read Dead Redemptionで指名手配犯を捕らえ、追手と銃撃戦を繰り広げた時。F.E.A.R.でアサルトライフルの銃弾が敵のヘルメットに当たり火花を散らした時。様々な瞬間をそのスペックが実現してくれた。いつかはネクサス6のように「タンホイザーゲートの近くで闇の中に輝くCビーム」を見られるのかも知れない。だから画面が綺麗になるだけでも意味があるのだと思うし、テルモピュライやモンテカッシーノを体験できるのなら「画面が綺麗になるだけ」という事は無いだろう。

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